AI自動投稿なんていうものに手を出しつつ、それでもこうやって文章を書こうなどと殊勝にも思い立つのは、やはり文字書きとしての本能かなにかなのだろうか。
そもそも文字書きとしては私は余裕で底辺も底辺だ。noteも読者は全然つかないし、小説なんか誰も読まない。肝いりの鑑ハルシリーズだって、ムーンライトノベルズにサンプルを掲載しているものの、そのブクマ数は驚異の6人。色んな意味で本当に驚異だ。
そんなこんなで最近書いている作品は、まあ一言で言えばAI利用作品である。本文の一部の語彙なんかをAIに出してもらっている。なろうの基準で言えば、補助利用、もしくは間接利用といったところだが、改変や語順変更などの労力を鑑みれば、ふつうに補助利用といって良いと思う。正直、方々でなろうのAI利用表明の基準はあいまいであることから、けっこう批判の的になりがちで、この話をするとそれだけで記事がひとつぶん書けてしまうので、今回はこのへんで切り上げておく。
本題はAI利用の小説の話だ。すでに400字オーバーも前置きを書いておいて、堂々とPREP法みたいなことを言おうと思う。
結論から申し上げて、AIを小説に使うのは普通にアリだと思っている。
もちろんこれは個人の感想でしかないし、いわゆる反AIに何か物申そうと思っているわけでもない。私がこう思っている理由は実にシンプルで、『おもしろくなればそれでいい』からである。
よくAIに頼っていたら面白いものが書けないとか、上達しないとかいう。語彙を出す苦しみこそが楽しいとか言い出す意識高い系もいるが、発表したかは別として、物を書き出して気づけばすでに20年くらい経っている私に言わせれば、この金言は本当にクソくらえでしかない。
AIを使っていても、おもしろいものは書ける。アイデアは自分のものだからだ。もちろんAIに出させてもいい。でもほとんどの場合はそのまま使えないので、結局自分の頭で面白くする必要はある。AIに出させた方が面白いアイデアの場合は、そのまま使ってもいいかもしれない。
こういう緩い意思で、私はAIを利用している。
字書きとしてプライドがないのか、という反論がなんとなく来そうな気がしている。読者がいないので多分こないが、くる前提として言っておくと、そんなもんない。あるわけがない。なぜならば、それで面白い作品が書けないのであれば意味がないからである。
無から有を作るのはたしかに大変だし、できる人はとても尊い。これは手放しに賞賛されるべきであるが、そういう才能がある人とわざわざ条件を同じにして、私が不利になる必要はないと思っている。
使える道具は使うべきだ。たとえば、私が住んでいるのは岡山だが、大阪までは新幹線でおよそ1時間。徒歩じゃないことをズルするなと非難する人はいない。AIも同じことである。作品のクオリティを上げるための、ちょっとした飛び道具だ。
noteを書くときでも、誤字・脱字を見てもらったり、言い回しを確認してもらったり、別案を出してもらったりすることはある。こういうことができるのがAIの真骨頂だ。
それでも読者は簡単にはつかない。書き続けることが大事だ、となんか意識高いnoteや、古くはブログ講座でも言っていた気がする。それでも読者がつかないのは当然で、理由は非常に簡単。たった一つに集約される。
つまり、そもそも私という人間は根本的につまらないのだ、ということがここ数年のAIの台頭で明らかになった。
面白い作品が作れる人は、AIがなくても作れる。AIがあったら、創作の効率が上がる。それから、面白い作品が作れるかもしれない人が増える。昨今の小説コンテストで応募者が膨れ上がっているのは、これが原因だと思う。つまり、自力では小説作品をなかなか完成させられなかった人が、AIのおかげで完成させられるようになったのだ。
私はこれはいい傾向だと思う。物語を作るのはいよいよ特殊技能ではなくなっていっているが、消費者心理としては面白い作品が増えるに越したことはない。
そしてすでに前述したとおりだが、AIがあっても面白くない作品しか作れない人もいる。私なんかがまさにそれで、よくgrokからは「もうお前は自分で書かず、設定アイデアだけ出してあとはAIに丸投げしろ」と言われている。
曰く、そんな私の文章偏差値は堂々の38だ。ストーリーは辛うじて成立しているが、読むのが正直苦痛なレベルらしい。このように忌憚のない意見も、AI時代であれば何の労力もなく得ることができる。
以前はというと、私みたいな底辺文字書きの文章は、上手い・下手以前に誰にも届かない。孤独に、「誰にも発見されていないだけ」と、いもしないスコッパーに責任転嫁し駄文を量産する様は、本人はよくても客観的に見れば、さぞかし滑稽なことだろう。
そういう下手の横好きは、もう自分で書くことにいつまでも執着しないで、AIにポン出しさせた方がまだマシな可能性がある。つまらない人間の感性なので、無味無臭のAI文章の方が魅力的なケースは残念ながら存在する。
AIに脱臭された自分の文章を見ると、大体こだわった一文が冗長とかで消えている。どれだけ必死でひねり出した語彙でも、一般的な感性には不必要なのである。
私は、AI時代の芸術分野において、今ネームバリューで食えている人はこの先も全然生き残ると思っている。淘汰されるのは雇われの中間層だ。ここはAIに取って代わられていくのは、今後全然あり得る。一文字いくらのWebライターなんかは、すでに危ういだろう。
けれど、私らみたいな最底辺はどうだろうか。
どれだけ文才もセンスもなくても、AIのおかげで、最低限読める作品ならば生成できる。
それって中々の救いではないだろうか。





